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そもそも自分が関心をよせたとして

今回のコラムは最近読んで印象に残った本の引用から始めます。

原因―結果という思考パターンを武器にして、多くの夫婦が争いを繰り返す。夫が酒を飲みすぎるから、家計を圧迫し家庭が暗くなってくる。だから子どもが非行などに走るのだ、と妻は主張する。あるいは、夫が妻に対して、お前があちこち出かけてゆくから、子どもはやる気をなくし、不登校になってしまう、と非難する。確かに、論理的に筋道が通っていて、夫の飲酒が妻の外出が、悪の原因であるように思われる。

ここで、片方が黙っておれば、論議には片がつく(多くの場合、事態は変わらないが)。しかし、片方も黙っていないとなると、「どうして俺が酒を飲むのかわかるか」とか「どうして私が外出ばかりするかご存知ですか」とか、話が始まって、おそらく相手のほうが原因であるという論理が展開されるだろう。要するに、自分は悪くないが相手が悪い、とお互いに言いたいのである。勝負は、力の強いほうや声の大きいほうや、舌の回転の速いほうなどが勝つことによって終わる。しかし、問題は片付いていない。

問題は原因―結果などと、論理的、継時的な筋道によっては把握できないところに、その本質があることなのだ。

河合隼雄著「中年危機」朝日文庫より

「多くの場合、事態は変わらない」「しかし、問題は片付いていない」の記述にくすっと笑ってしまいました。たしかに1ミリも事態が良い方向に向かっていませんから、見事なまでに「不毛な議論(言い争い)」ですよね。

「なぜ」「どうして」という問いは結構あやうくて、使いどころを間違うと不毛な思考に陥りやすいです。たとえば交通事故にあって足を骨折したとして「どうして自分がこんな目に」といくら考えても…、まあ時間の無駄でしょう(もちろん気持ちは痛いほどわかりますが…)

私が生きる上で大切にしていることの一つとして、そもそも自分がこのことに関心をよせて考えたとして、それによって自分もしくは周囲の誰かの幸せにつながるか、という問いを意識的に自分に投げかけることがあります。

先ほどのような交通事故にあって「どうして自分がこんな目に」と思ったとして(自分もきっとそう思うでしょうし)、そのうちにこの「幸せにつながるか」という問いを自分に投げかけ、やがて「誰の幸せにも役立たなそうだから、これを考えることは自分にとって重要でないこと」と位置付けるはずです。

経験上このように位置付けたことは、それ以上関心を寄せるのがばからしくなるのか、自然と考えなくなります。これ以上自分が関心を寄せても意味なさそうだし、不毛だなぁ…と。

「そもそもこのことに自分が関心をよせて考えたとして、自分か誰かの幸せに少しでもつながるか」

私が生きる上でずっと大切にしてきている問いのひとつです。

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